―――そっと戸を開く。
なるべく帰って来たことを知らせるように、ワザと音を出しながら歩みを進めた。
母上の許を訪れすぐさま戻ってきたが、既に望美は床に就いていた様だ。
望美と反対側の布団の一部を捲り、素早く中へと滑り込む。
望美を背後からそっと抱きすくめたら、身体を硬くしていた様子だったが直ぐにそれも解れたようだった。
「お・・・お帰り・・・なさい」
たどたどしくも、自分の帰りに際して言葉にしてくれた事が、嬉しかった。
「ただいま戻りました」
耳元で囁かれる言葉に、望美は背がゾクゾクとした。
それを気付かれたくなくて、身体を反転して銀と面と向かう。
そんな望美に微笑んで
「大丈夫です。 何も――致しはしません。 安心してお眠り下さい」
そう言って安心させたつもりの重衡だったが、何故か眉を寄せて困った顔をされてしまった。
先程までは落ち着かない様子で自分を見ていた望美も、
私の胸に顔を埋めて暫くしたら、安心したように頬を緩ませた。
内心ホッと胸を撫で下ろし、 言わねばならぬ言葉を口の端に乗せる。
「明日、決着を着けようと思っております」
「銀・・・」
その言葉に望美はハッとしたが、愛おしそうに微笑む私をじっと見詰めていた。
「ですから、ゆっくり休みましょう」
不安で瞳を揺らす望美にゆっくりと、ゆっくりと優しく・・・愛おしく髪を撫でてゆく。
再び落ち着きを取り戻した様子の望美は、自分にしっかりと身体を委ねていた。
「うん―― ありがとう」
重衡が望美の頬に触れていた手に、ゆっくりと己の手を添えて、
今にも涙が零れそうな表情で私に礼を陳べた。
もう片方の手で望美を抱き寄せ、これ以上哀しそうな表情を今はして欲しくはないと、胸へと誘う。
望美の旋毛に口付け頷いて、私はその言葉に答えた。
「お休みなさいませ」
「おやすみなさい」
すぅすぅと、穏やかな寝息を立てて眠る少女の、零れた雫と顔に掛かった髪をそっと払ってやる。
「―― 今日一日、大分無理を強いてしまいましたね。 申し訳御座いませんでした・・・十六夜の君――」
このまま共に眠りに就こうと思ったが、
微かに聞こえる宴の音に此処が平家なのだと重衡に思い知らせた。
自分の中の気持ちは既に定まっている。
やる事も全て、滞りなく整い始めている。
不安があるとすれば――・・・・望美が見たことの無い、初めて歩む道だという事。
そしてその大部分は重衡が実行に移すという事。
それを平家の者に悟られぬよう、神経を研ぎ澄ませ細心の注意を払っていた。
「―――白龍殿の加護がこちらにはある・・・」
それだけで・・・十分だ。
もしも自分に何か危険が及んだとしても、―――将臣が引き継いでくれるだろう。
ようやく手にしたこの温もりを、離したくは無い。
しかし、・・・こればかりは分からない。
未来は自分の手の中に、有るようで無いのだから―――。
「私は・・・貴女に生かされている――だからこそ、今が・・・未来があるのです」
安心して眠るこの寝顔を、ずっと見続ける事を御仏は許してくれるのか―――。
これは平家の『けじめ』だ。
二人にはなるべく加担はさせたくはない。
望美が未来を変えられるのであっても、自分の手で・・平家の手の下で、一門を建て直さねばと強く願う。
そうせねば、これからも生と死の狭間の・・・見えぬ闇に縋り続ける事しかしなくなってしまう。
今を生きる者がしっかりと地に足を着け、苦楽を見詰めなおさねば平家は今までと何も変わらないだろう。
だからこそ、自分の命を懸けてでも実行に移す覚悟を決めていた。
自分一人の命で事が成すのであれば・・・、そう思うが今は少し以前とは違う。
一緒に未来を歩もうと言ってくれる人が居る。 だからこそ、今は自分は願ってしまうのだ。
もう少し、この優しい姫君の傍に付き添う事を許してもらえないかと―――。
後は、明日を祈るだけ・・・か。
自嘲とも取れる溜め息を吐いて、望美の額に自分の額をそっとつける。
『銀』が、『重衡』を自覚してから毎日欠かさず行ってきた事。
今日は流石に自分も疲れているし、隣では望美も眠りに就いている。
休もうかと寸の間思った。
―――だが、自分が疲れたという程度の事で、
何の罪も無い者達の骸を積み上げた自分が、やはり何もせずに眠れもせず、
結局は望美を起こさぬように気を付けながら、床を抜け出たのであった。
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どの位の時が経ったのだろう。
集中していて時間の感覚は薄れていた。
微かに床の歪みに気付き、ゆっくりと筆を動かし様子を伺った。
「眠れないのですか?」
筆を落ち着かせ、気配を消しながら近づいてきた望美に微笑み顔を上げた。
望美はそっと文机の上に眼を落とし、ざっと文字を見て言葉を零した。
「写経・・・お邪魔しちゃったね」
「いいえ。 今し方、終わったところで御座いますよ」
まだ途中だったとしても、望美には分からないであろう。
終わったのだと言い、筆を収めた。
「喉でも渇きましたか? お持ちいたしましょう」
慣れぬ地だ、不安で起きたか喉が乾いたのか――そう思って言葉を発しながらも、
すぐさま片膝を付いて立ち上がろうとしたら、望美は慌てて手を振った。
「此処でそんな事させられないよ!」
「お気になさいますな。 平家には貴女様は不慣れですから」
確かに今は重衡とも銀とも云えない、自分でも曖昧な感覚が漂う。
だが、そんな事は気にせずとも良いと―――
望美の為ならばと思えば、何時も通り身体は勝手に動いていた。
しかし望美はその言葉に頭を振って否定した。
「うぅん。 別に喉は渇いてないから・・・大丈夫。有難う、銀」
「では・・何か不安でも御座いましたか?」
問い返すと望美は急に押し黙り、恥かしそうにしながら顔を俯かせてしまった。
その仕草に重衡は胸を突かれる思いがした。
(――――っ 自惚れと・・・思っても良いのでしょうか)
流石にその様な言葉は今は憚れるだろう。
半信半疑ながらも言ノ葉を紡いだ。
「お待たせしてしまったようですね。 明日も大変ですから、もう休みましょうか」
俯いたままの望美だったが、コクリと頷くのを満面の笑みでしっかりと見届け、
銀は望美の手を取り、二人一緒に床にもう一度着いたのだった。
2015.01.17